JAリーダーインタビュー

広島県JA広島市 代表理事組合長 吉川清二さん

  • 広島県 JA広島市
  • 2024年6月

待っているだけでは信頼はついてこない

豪雪地帯の集落に生まれ、田んぼや山に育てられたという。農協職員になってからは、ひたすら現場主義を貫いた。いま、視野にあるのは、たがいが支え合って生きる集落の姿─。

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山で稼いだ〝対価〟が、誇らしかった

─生まれは芸北地域の農家だそうですね。

 島根県境に近い南門原という集落(現在の北広島町)で、標高約六五〇メートルの中山間地域です。わが家には田んぼが二町歩ほどありました。わたしが子どもの頃はまだ大型農機もなく、ほぼ手作業です。田植えや稲刈りは集落総出でやるのですが、わたしは田植えをする人の手元に苗を投げて渡したり、刈り取った稲わらを運んだりといった手伝いをよくしましたね。
 ときどき狩猟にも参加していました。わたしの役割は、猟師のいる方向に動物を追い込んだりする「勢子」です。ウサギやイノシシの肉をもらって帰ると、自慢げにおやじに見せていましたよ(笑)。一人前に対価を稼いだ気になって、誇らしかったのです。
 おやじは稲作のほかにも、木の補植や木材の販売といった山仕事をしたり、ニワトリを飼ったり、ウシを繁殖したりと、いくつも仕事をしていました。ぜいたくをしなければ、それで十分に暮らすことができたのです。

 潮目が変わったのは、昭和三十八年一月に西日本全域を襲ったいわゆる「三八豪雪」です。もともと豪雪地帯ですが、このときの積雪は三メートル。ふだんは見上げている神社の鳥居が足元にあったくらいです。国道が一本しか通っていないような地域でしたから、除雪が間に合わない。これを機に、若者は都会へ出るようになり、集落の人口はぐっと減りました。

─農村が大きく変貌する時代を経験したのですね。

 米農家にとっては悩ましい状況もありました。昭和四十年代後半から生産調整が本格化したからです。そこで、転換作物をどうするか、集落ごとに話し合いました。わたしの集落で栽培することになったのはトマトです。四十九年に雨よけ栽培技術が導入されました。これが、現在の「芸北トマト」の発祥です。
 わたしは高校まで地元で過ごし、卒業後は東京農業大学に進学して農業経済学を学びました。ちなみに在学中、私鉄駅で「押し屋」のアルバイトをしていました。そう、朝夕のラッシュ時に、列車の扉に挟まった乗客や手荷物を車内に押し込む仕事です。そのまま電鉄会社に就職しようかとも思いましたが、いずれは家を継ぐつもりでしたから実家に戻りました。二年ほど花卉の栽培を経験したのち、縁あって芸北町農協(当時)に入組しました。

支店の統廃合で閉鎖した店舗を学童保育の場に

─職員として、どんな仕事がいちばん印象に残っていますか。

 二十代終わりから三十代にかけて、トマトの選果場を担当していたときですね。品種改良が進み、甘みが強くて長距離の輸送にも耐える『桃太郎』が普及した頃です。生産量が急拡大し、五十六年には選果場に重量選果機が導入されました。わたしは出荷管理から販売計画まですべて任されましたから、たいへんでしたよ。でも毎日がとても充実していました。
 農家の畑を回り、生育状況を見て出荷量を予想し、どの市場にどれだけ出すかを差配する日々です。「何月何日にMサイズを五百箱まとめてほしい」といった市場からの特売オファーがあれば、農家の協力を得て、確実に荷が集まるように調整しました。市場との商談もしょっちゅうです。夜中にトラックに同乗して福岡の市場に行き、朝帰ってきて通常操業、次の日は大阪の市場へ、なんてこともざらでしたね。七月下旬から十月いっぱいが出荷のピーク。忙しくて、子どもの運動会にも行けませんでした。

 農家とは密にコミュニケーションを取ってやっていました。ただ、産地形成の途上ですから、厳しい局面もありましたね。たとえば、赤く色がついて軟化したものは輸送には適さず、店頭に並ぶ頃には過熟になりますから、どんなに形がよくても規格外です。それで農家を怒らせて大げんかになったこともあります。せっかく作ってくれたものにたいし、「商品にならない」と言わなければならないのは、わたしもつらかった。でも、産地全体の底上げのためなんだと自分を信じ、やり続けたことで信頼を得られたと思います。
 選果場にいた十年ほどで経営を覚え、農家との強いきずなを培うことができました。現場の経験なくして、いまの自分はないと思います。

─そうした経験を、いま、職員にどのように伝えていますか。

 こちらから現場に出向くことがだいじです。とくに営農指導は、待っていてはだめですね。わたしが選果場にいた頃は、各農家に用意してもらったノートに、圃場を見て気づいたことを書き込んで渡したり、シーズンの終わりに生育調査をして改善策や課題を話し合ったりもしました。その積み重ねで関係が醸成されたのです。
 現在、地域別の実情に応じた農業振興プランを基に営農指導体制を強化しています。芸北地域では、農業構造改善事業として圃場整備が進み、規模拡大や多角経営への支援体制が整えられてきました。

 ただその一方で、管内にはいまも集落営農の伝統が残っていますから、昔ながらの集落を守っていくことも農協の使命です。集落と農地がなくなったら、地域農業自体が失われてしまいます。まず、なによりも人がそこで暮らしていることがだいじなのです。たとえ農地が小さくとも、加工品を作ったり、直売所に出荷したりしながら、地域で生きていけるようにしたい。
 今年の通常国会に提出された食料・農業・農村基本法の改正案にも、多様な農業者による生産活動によって農地確保を図る旨の条文があります。これはなんとしても実現してほしいですね。

─基本法の見直しの背景には、地域や農業の衰退もあります。JAの経営は、より難しいかじ取りが迫られています。

 平成五年に8JAが合併してJA広島市が誕生して以降、支店の統廃合を進めてきましたが、閉鎖した店舗の再利用もおこなっています。たとえば、小学校の隣にある空き店舗を利用した学童保育です。共働き世帯が増えている昨今、需要はかなりあるんです。地域から若者が出て行って自宅葬ができない家も増えていますから、家族葬専用の葬祭会館も作りました。
 組合員のニーズは、時代とともに変わってきています。活用できるものは活用し、ニーズに合ったサービスを展開することでJAの利用が増えるよう、知恵を絞らなければなりませんね。与えられた場所で、職員一人一人が力を発揮できるような環境づくりをするのが、わたしの仕事だと思っています。

文=成見智子 写真=松尾 純

詳細情報

きっかわ・せいじ/昭和二十八年生まれ、北広島町出身。東京農業大学を卒業後、芸北町農協(当時)に入組。JA広島市に合併後、営農販売部長などを歴任。平成二十四年同JA常務理事、二十五年代表理事専務、令和元年代表理事組合長に就任し、現在に至る。五年JA広島中央会代表理事会長に就任。

JA広島市

平成五年に誕生。南は瀬戸内海に面し、北には中国山地が広がる。コマツナ、エダマメなどの生産が盛ん。日本三大菜漬けの一つ「広島菜漬」に使う広島菜など、多くの伝統野菜の産地だ。夏場のホウレンソウや「芸北トマト」、「芸北りんご」などは、山間地の冷涼な気候を生かして生産されている。

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