JAリーダーインタビュー

滋賀県JAグリーン近江 代表理事組合長 大林茂松さん

  • 滋賀県 JAグリーン近江
  • 2024年7月

処理はデジタル、対応はアナログで

二十代は農機メーカーの営業員として、農家に通いつめた。そこで痛感した農協職員との差。農協に入ってからは、農家のための仕事を磨き続けてきた。

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農家の家に入るまで七転八倒の日々

─地図を見ると、生家の地域は織田信長の居城だった安土城跡の近くですね。

 近江八幡市の「老蘇」という集落です。国の史跡にも指定されている「老蘇森」で知られています。中山道の武佐宿と愛知川宿との中間地点にあり、旅人の憩いの森だったのでしょう。万葉の昔から、多くの和歌や紀行文に詠まれています。現在は国道や新幹線が通っていますが、わたしが子どもの頃は森林でした。集落は稲作が主体で、いちめんの水田です。わが家の田んぼは二ヘクタールあり、両親はいつも忙しく働いていました。日中は家にだれもいないので、小学校から帰ると隣の家にかばんを置いて遊びに出たものです。
 野球、ドッジボール、陣取り合戦……。森や田んぼや川で、ありとあらゆる遊びをしましたね。雪が降ったら、竹を割って板状にし、先端を火であぶって曲げてスキー板を作るんです。それをミカンやリンゴの木箱の底に付けるとそりになる。集落の世帯数は百を超えていましたから、田植えや稲刈りのときはにぎやかでしたね。

─家の手伝いはよくしたのですか。

 当時は養鶏もやっていたので、土手や山で草を刈ってきてニワトリの餌を作ったり、二人の姉と共に卵を磨いたりするのが小学生時代の日課でした。
 両親は、農業で食べていけるよう、いろいろ工夫していました。わたしが中学に上がる頃から田んぼは二毛作になり、ムギの収穫後、手押し式の耕うん機で耕すのもわたしの仕事になりました。やがて、養鶏を養豚に転換するのですが、これが重労働でね。毎日の餌やりに加え、週に一度、稲わらを切って作った敷き料を手作業で交換しなければなりません。汚れた敷き料を出して堆肥用に田んぼに運び、豚舎をきれいに掃除して新しい敷き料を入れてやると、ブタが気持ちよさそうにはしゃぎまわるんです。そのぶん、出荷のときは寂しかったなあ。

組合員よし、農協よし、地域社会よし

─大学卒業後、企業に就職していますね。

 大学では植物病理を専攻し、農業を続けながら農業関係の仕事に就く道を考えたのです。農業環境が変わってきていましたからね。そして、卒業後、農機メーカーに就職し、販売を担当しました。最初のうちは、まったく知らない土地で高価な農機を売る苦しさ、つらさを味わいました。
 農家は義理堅いですから、知らない人間を家に入れたりしません。ぴしゃりと木戸を閉められてしまう。そこでわたしは、閉められる直前に扉に足を挟むようにしました。ところが、骨が折れたかと思うくらい痛いんです。木戸は重いですから。「これはあかんな」と思い、こんどはかばんを金属製のものに替えました。足の代わりに、これを挟めば痛くない(笑)。相手も扉を閉められないから「すみません開けてくださいよ」ってなるでしょう? それでやっと入れてもらえるんです。まともに話ができるようになるまで半年かかりました。
 ところが農協は違うんです。新人職員でも、農家に行けばすぐ「上がれ」となる。いったいなにが違うのか、そのときはわかりませんでした。だから、営業がうまくいかなかった日はいつも夜空を見上げていましたね。「売り先は星の数ほどある」と。
 五年ほど勤めた頃、地元の老蘇農協がライスセンターを新設し、職員を募集していました。これは縁ですね。求人に応募し、昭和五十六年に入組しました。

─農協は、企業となにが違ったのですか。

 最初の仕事は肥料や日用品の配達です。二年ほど続けていると、組合員の家も顔も家族構成もわかってきます。ここからが、一般企業との違いです。農業に関わることだけではなく、「調味料がなくなった」「ガスが切れた。風呂入れんで」なんていう電話がしょっちゅう来る。ここまで組合員の生活に関わっているんだ、当てにされているんだと実感しました。すぐ対応に行くと、「すまんな、ちょっと上がってけ」となる。サービスの中身が違うんです。だから、つながりも、信頼度合いも違う。それを身にしみて感じました。
 その後、営農部門に異動しましたが、ここでもさばききれないほどの相談が来ました。そこでわたしは、耕作者や作物、面積などを書き込んだ地図を作って地域を回り、異常があれば対処法などを書いて置いておくようにしました。そう、相談される前に対応するのです。
 仕事の効率が上がり、農家にも感謝されました。仕事はやり方しだい。やるべきことを後回しにせず、工夫して先回りすれば余裕が生まれます。
 空いた時間で、転作作物の産地づくりをしました。その一つが、現在では看板商品になっている黒大豆です。米より手間がかかりますが、覚悟を持ってやれば収入を得られます。それを理解してくれた農家から生産が広がっていきました。

─今後JAはどんな工夫が求められるのでしょうか。

 管内では二十年以上前から集落営農の法人化を推進し、現在約百四十法人ほどあります。これは単位農協では日本一と自負していますが、「後継者不足」という課題があることに変わりはありません。
 そこで、農業者以外の人や、地域外の人も含めて広く集落営農に関わってもらえる仕組みを作り、「農的人口の拡充」をめざします。
 昨年、管内の日野町桜谷地域で、JAの空き店舗を拠点に、「桜谷地域農村RMO推進協議会」が設立されました。農村RMO(農村型地域運営組織)とは、集落営農組織や自治会など、地域の関係者が連携して、農地を保全したり、住民の生活支援をしたりする枠組みのことです。
 JAは、農村RMOと共に、農業だけでなく、地域のさまざまな課題の解決に取り組んでいきたいと思っています。
 われわれ農協の仕事は、人と人とのつながりの中にあります。JAでもデジタル化を進めていますが、それはあくまで事務の手段です。
 処理はデジタル、対応はアナログ。
 これがたいせつです。機械が仕事をしている間、職員は空いた時間で人とのコミュニケーションを深めてほしいのです。
 この地域には、近江商人の「三方よし」など、先人のよき教えがあります。それを共通の価値観として仕事に励んでいこうと職員には伝えてきました。「組合員よし、農協よし、地域社会よし」など、いろんな言い方ができると思います。いつもそれを念頭に置き、人とのつながりをだいじにしていけば、かならず協同組合人らしい仕事ができると信じています。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JAグリーン近江

詳細情報

おおばやし・しげまつ/昭和二十八年、近江八幡市生まれ。近畿大学を卒業後、農機メーカーに就職。五十六年老蘇農協に入組。JAグリーン近江に合併後、営農事業部部長などを歴任。平成二十一年管理担当常務理事、令和元年常勤監事、三年代表理事副組合長、四年代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JAグリーン近江

平成六年に東近江地域の九JAが合併して誕生。琵琶湖の南東部に位置する管内は水田地帯として知られ、集落営農法人による農業振興を図ってきた。三大和牛の一つ「近江牛」の産地でもある。また、花卉の「ストレリチア」の生産も盛んだ。

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