JAリーダーインタビュー

福島県JA福島さくら 代表理事組合長 志賀博之さん

  • 福島県 JA福島さくら
  • 2024年8月

生きることすべてがわたしの喜び

福島県の浜通りの農家に生まれ育った。東日本大震災では、被災JAの職員として、人々の生活再建に力を尽くした。そして、いまなお、全力で走り続けている。

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 「できる!」と心の中で唱えれば

─福島県南部の太平洋に面するいわき市のご出身だそうですね。

 小川町の福岡という集落で生まれ育ちました。山間部の集落です。昔は田植えも手作業でしたから、隣近所が集まって共同で作業するんです。田んぼの中から「おーい」と声がかかったら、その人の手元に苗の塊を投げるのが、子どもの頃のわたしの役目でした。みんなで汗を流したあと、お昼に食べる塩むすびの味は格別でしたね。
 わが家には一町歩ちょっとの田んぼとナシ畑がありました。両親は稲作や畑仕事、その合間に山仕事もして、一年中忙しくしていました。ナシの収穫期になると、納屋にこもって夜中まで選果をします。その間、兄とわたしは家でテレビを観るのですが、たまにおっかないシーンが出てきたりすると、怖くなって納屋に駆け込んでいましたよ(笑)。稲刈りが終わった田んぼで野球をしたり、川で泳いだり、手製のスキーで落ち葉の上をすべったり、木登りをしたり。いつも自然の中にいました。
 体が大きくなると、力仕事を手伝うようになりました。土壌改良のために客土をしたときのことは、よく覚えています。トラックで大量の土が運ばれ、田んぼに山盛りになっている。一輪車に土を積んで何百回も往復しながら、田んぼの隅々まで土を運んでならしていくんです。これはもう、せつなくなるほどつらかったですね……。

─高校卒業後、好間町農協(当時)に入組しました。

 職員が全部で十数人という小さな農協です。最初の一年は経済担当でした。肥料や飼料などを配達すると、「お茶飲んでけ」と言われて玄関先に上がり、いろんな話をする。それで組合員の顔や名前、家族構成を覚えるんです。その後、金融窓口に配属されました。当時はまだオンラインシステムがなかったから、利息などは一件ずつ電卓をたたいて計算していました。二月と八月は、ほんとうにたいへんでしたよ。
 入組三年めの昭和五十八年、好間町農協は平農協(当時)と合併しました。このときわたしは嘱託職員となったのですが、翌年に異動となった飯野支店が転機となりました。組合員をとてもだいじにして、家族のようなつきあいをする支店だったのです。「この人に相談すればなんでも解決する」と、組合員から絶大な信頼を得ている先輩職員が何人もいました。その背中を見て、「あてにされる職員にならなければ」と肝に銘じました。彼らとの出会いがなかったら、いまの自分はなかったと思います。

─仕事への向き合い方が変わったと。

 なにを求められているのか、どうすれば喜んでもらえるのか、話を聞いてもらえるのか。相手の立場に立って物事を考えられるようになったと思います。「資格を取りなさい」と上司に助言され、農協職員の資格認証試験のほか、SS(サービスステーション)業務や毒物・劇物の取り扱い、旅行事業、宅建事業などにかかわる資格も取得しました。そのかいあって、六十一年に正職員に返り咲きました。
 平成五年の合併でJAいわき市(当時)が誕生すると、県内で初めて共済専任渉外担当(LA)が新設され、わたしもその一人に選ばれました。新規契約の開拓という厳しい業務です。でも共済連の講師から「心の中で『できる!』と何度も唱えなさい」と助言され、実践するうち、初めて会う人にたいしても腰が引けることなく話ができる自信がつきました。組合長となったいまも、これを続けています。

来る日も来る日も組合員のために

─平成二十三年の東日本大震災の発災時は、本店の監査室長だったそうですが。

 あの日のことは、鮮明に記憶しています。ゴォーッという地鳴りとともに激しい揺れに襲われ、携帯電話の警報音がいっせいに鳴りました。しばらくして外に出ると、ぐらぐらと揺れる電柱の向こうで、山々がうねるように波打っている。生まれて初めて目にする、恐ろしい光景でした。
 急きょ災害対策本部を立ち上げましたが、電話がほとんどつながらない。農機センターの無線が命綱でした。沿岸の久之浜支店が津波被害に遭いましたが、職員は全員避難したと連絡が入りました。一方で、同地区にある種子センターの倉庫は「全壊」との一報。水稲の原種は、なんとしても守らなければならない。被災していない職員を全員集めて、二日がかりで種を確保しました。
 福島第一原発の爆発事故後は本店のみの営業とし、管内だけでなく、原発の立地町村から避難してきたJAふたば(当時)の組合員の相談にも対応していました。
 支店の営業再開は三月下旬です。行政の要請で災害救援米を供出し、生活物資が入れば直売所を開けて販売し、ガソリンが入荷したら在庫があるかぎり売り、ATMには毎日現金を補給する。来る日も来る日も、子会社を含めた役職員みんなでそれを続けました。きわめて困難な状況のなか、自身の危険を顧みずに組合員や地域住民のために尽力できたのは、相互扶助の精神を培ってきた協同組合だからではないか。わたしはそう思っています。

─地域農業の復興にあたり、現在どのような取り組みを進めていますか。

 令和三年、富岡町に「JAアグリサポートふたば」という子会社を設立し、四年度から水稲、長ネギ、ブロッコリー、加工用トマト、サツマイモを中心に農業生産を始めました。復興と営農再開のシンボルとなるよう、毎年作付けを拡大していきます。
 また、JAグループ福島では、特定区画に畑地を集約することで団地化するなどし、農業所得の増大をめざす「ふくしま園芸ギガ団地」構想に取り組んでいますが、わたしたちはキュウリやトマト、ピーマンなどの生産に力を入れています。もうかる農業を実現し、若い人たちが職業として農業を選べる環境を作っていきたいですね。
 今後も協同組合として力を発揮するためには、職員満足度を上げることが重要ですね。役員や上司は部下の考えや意見をよく理解したうえで、組織としてなにをめざすのかをしっかり伝え、信頼関係を築いていかなければなりません。よい職場環境を作り、職員が前向きな姿勢で仕事をすれば、おのずと組合員満足度も高まります。
 継続は力なり─。わたしがたいせつにしている言葉です。私生活でも仕事でも、好きなことでなければ続きません。好きになるということは、そのことに「喜び」を感じることだと思うのです。
 わたしはいつも、午前三時に起きてトレーニングをしてから出勤しています。貯金ならぬ〝貯筋〟ですね(笑)。継続は力なのです。
 生きること、仕事があること、人と会えること、そして健康であること。これらすべてがいま、わたしの喜びになっています。

文=成見智子 写真=津田雅人(家の光写真部) 写真提供=JA福島さくら

詳細情報

しが・ひろゆき/昭和34年生まれ、いわき市出身。福島県立磐城高等学校を卒業。好間町農協に入組。JAいわき市に合併後に総務部長、JA福島さくらに合併してから総務企画部長などを歴任。令和元年常務理事、令和4年代表理事専務、同年代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JA福島さくら

平成28年に5JAが合併して誕生。3市8町2村を管内とする広域JAで、エリア内の人口は約72万人。稲作、畜産、トマトやピーマン、キュウリなどの園芸と多様な農業が営まれている。東日本大震災と福島第一原発の被災地域の営農と暮らしの再建に取り組み続けている。

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