JAリーダーインタビュー

福岡県JA糸島 代表理事組合長 山﨑重俊さん

  • 福岡県 JA糸島
  • 2024年10月

意欲を持つ者が大きなことをなす

人口約十万の小さな街に、年間百二十万人超が訪れるJAの直売所がある。
リーダーとして、ある覚悟を心に誓い、産地の底力を引き出そうとしている。

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いくつになっても「名人の息子」と呼ばれ

─生家では、どんな農業を営んでいたのですか

 米のほか、ミカンとスイカを生産していました。「これだけは、おれはぜったいに負けん!」と親父が自負していたのはスイカです。たしかに、味が違いました。この甘みはなかなか出せないなと、子ども心に思ったものです。最盛期にはハウス五棟で一町歩近く作付けしていました。休日はもちろん、平日も学校から帰ると畑の手伝いです。重いスイカを一つずつ抱えて運び出し、トラックに積み込む作業はきつかったですね。
 親父は、収穫したスイカをぽんぽんとたたいて音を聞き、ひっくり返して色合いや軸の枯れぐあいを見ます。だめなものは「熟れとらん!」と言って、その場で包丁を入れてしまう。中身が見えなくても、商品に値するかどうかを瞬時に判別し、自分が納得したものだけを売るのです。プロというのはそういうものだと親父から学びました。
「人の二倍働いて二倍稼いだら、二倍遊んだっちゃ二倍残ろうが」。それが口癖でした。二倍残るかどうかは別として、意気軒昂な親父らしい言葉だなと思って聞いていましたよ。地元ではいまでも、「お父さんはスイカ名人でしたね」と言われることがあります。いくつになっても、「名人の息子」と呼ばれ続けるのでしょうね(笑)。
 篤農家の親父でしたが、家業を継げとは言いませんでした。ミカンの需要が低迷し、専業農家としての経営がだんだん難しくなってきたからです。わたしは国立大学の農学部に進学して農業経済学を学びました。専攻は協同組合論です。全国組織で働きたいと思い、卒業後は福岡県共済連(当時)に入会しました。

─共済連では、どのような業務に携わっていましたか。

 最初に配属されたのは査定部門でした。平成三年九月、二つの大型台風が立て続けに九州地方を襲ったときのことは忘れもしません。被災地に駆けつけると、屋根が根こそぎ吹き飛ばされた家もありました。それくらい、ひどい被害だったのです。
 職員が総出で、月曜の朝から土曜の夕方まで被災地で査定を続けました。被災した組合員を一軒一軒訪ねて話を聞き、被害状況を確認するのです。わたしは、約三千軒の家を回りました。
 査定がすべて終わったのは十二月末です。共済金が振り込まれ、途方に暮れていた人たちの顔に生気が戻ってくるのを見て、喜んでもらえてよかったと思いました。必要な人に、必要な保障がなされること。それが共済事業の使命なのだと胸に刻みました。
 その後在籍した管理部では、事業計画の作成や決算などを担当しました。事業のあり方の是非や数字の整合性などを見極められるようになったことは、大きな財産になっています。監事室で監査を担当していたときは、JA糸島の財務諸表にも目を通していました。そうした縁もあり、共済連を退職後、平成二十六年にJAの常務理事に推されたのです。

─まず、なにから取りかかったのですか

 金融部門の立て直しが急務でした。ゼロ金利やマイナス金利が続くなか、貯金の金利が比較的高かったのです。一方、貸出金のほうは件数は伸びていましたが、金利が低く設定されていました。組合員のためにそうしていたのはわかりますが、JAの経営を圧迫していたのです。わたしは、五年、十年先を見すえ、将来にわたって組合員の利益を考えた経営をしていかなければならないと思い定め、是正に取り組みました。
 立て直しには三年かかりましたが、現在は信用、共済、販売、購買の四部門の利益がほぼ均等になりました。その意味では理想的な状態といえます。ただ、経営改善に向けた課題はまだまだ山積みです。施設利用料など、これまで手付かずだったところにもメスを入れざるをえないでしょう。組合員の負担が増える部分もあるかもしれませんが、長い目で見て「JAの組合員でよかった」と思ってもらえるよう、販売を強化し、必要な環境整備も進めていきます。
 その一つが、高齢化や人口減少に対応したスマート農業の推進です。県や市の補助を受け、高精度の測位ができるアンテナ基地局を管内に整備しました。

黙って責任をとる。それだけは忘れまい

─JA直売所として日本一の売上高を誇る「伊都菜彩をご案内いただきました。店内に「『糸島産』であること」というメッセージボードが掲げられているのが印象的でした。

「農業は糸島市の基幹産業である」という認識を、行政とも共有しています。豊かな地域社会をつくるための手段として、農業があるのだと。わたしたちは、いま、市の商工振興課を事務局に、漁協や地場企業などと「糸島市食品産業クラスター協議会」をつくって、新商品の開発や販路開拓をおこなっています。
 JA産直市場「伊都菜彩」では、販売する農畜産物の九七パーセントが糸島産です。出荷会員数は、千五百を超えていて、令和五年度の売上は、過去最高の四十二億九千万円に達しました。
「糸島ブランド」の価値の源泉は、組合員の力にほかなりません。出荷会員がみずから基準やルールを定め、少しでもよいものを出荷しようという気概がある。自分たちが作ったものに誇りを持っているのです。

─二十九年に組合長に就任してから、職員に日ごろ、どんな言葉をかけていますか。

 やりたいことはぜんぶやりなさい、と言っています。失敗してもいいんです。それは投資だと思えばいいのですから。
 意欲を持つ者のほうが、能力がある者よりも大きなことをなす。それがわたしの持論です。ただ、同じ失敗を繰り返さないように、つねに「微差を追求する」ことを心がけてほしいですね。いままでやってきたことを急に大きく変えることはできませんが、そこにある課題と現状を整理しながら、少しずつ改善していくのです。指示されたことだけをやるのではなく、自分で課題を見つけて解決していく「問題解決型」の職場にならなければ組織は変わらないと思います。
 職員が働きやすい環境をつくったうえで、なにかあればすべての責任を負うのが自分の役目だとわたしは思っています。尊敬するのは、福岡県出身の外交官で、第三十二代内閣総理大臣の広田弘毅です。文官の中でただ一人、東京裁判でA級戦犯として裁かれ、死刑に処せられました。無罪になる可能性もあったと言われるなか、いっさいの言い訳をせず、沈黙を貫いたからです。それが、トップの責任のとり方である。いつもわたしは心の中で、それだけは忘れまいと誓っているのです。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JA糸島

詳細情報

やまさき・しげとし/昭和三十年生まれ、糸島市出身。五十三年佐賀大学農学部を卒業後、福岡県共済農業協同組合連合会(現・全国共済農業協同組合連合会福岡県本部)に入会。自動車部長、業務部長などを歴任し、平成二十四年に退職。二十六年JA糸島常務理事、二十九年代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JA糸島

昭和三十七年に14農協2連合会が合併して誕生。北は玄界灘に面し、南は脊振山系の山々が連なる。温暖な気候を生かして、米、野菜、果樹、花卉など多種多様な農産物が生産されている。平成十九年にオープンしたJA産直市場「伊都菜彩」は、令和五年三月に来店者累計二千万人を達成した。

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