JAリーダーインタビュー

鳥取県JA鳥取西部 代表理事組合長 中西広則さん

  • 鳥取県 JA鳥取西部
  • 2024年11月

土の上に立つと人は元気になる

原風景は、父の背中。その人生はいつも土の上にあった。若手職員時代から、現在に至るまで、農家の声に耳をそばだて続けている。

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若手時代のペンだこがまだ消えない

─米子市の農家の四代目だそうですね。

 うちは、市の中心部から北西に向かって細長く延びた弓ヶ浜半島の富益町という所にあります。祖父の代までは養蚕が家業の柱でした。家の中に蚕室があって、家族はその片隅で生活していたそうです。
 その後、養蚕業が下火になると、三代目の父は葉タバコに切り替え、後作でニンジンも作るようになりました。わたしも収穫した葉を乾燥場に運んだり、乾燥させた葉を出荷用に束ねたりする仕事をよく手伝いました。
 農家の長男ですから、高校を出たら就農するのが自然な流れだったかもしれませんが、父は「これからの時代、学校は出ておかないと」と言って、大学に行かせてくれました。進学先は、京都の私立大学です。
 学生時代の一番の思い出は、なんといっても男声合唱団。年に数回、定期演奏会も開いていました。いろいろな個性を持った声が共鳴し、絶妙なハーモニーをなしてホールに響きわたる瞬間の、あの高揚感は忘れられませんね。日々の練習や活動をとおし、先輩・後輩の関係づくりやグループ活動のたいせつさを学びました。
 当時の下宿代は一万円ほどでしたが、親からは月々仕送りがありました。自分が社会人になったとき、両親のすごさがわかりました。毎月の仕送りと四年間の学費を、農業収入だけで賄ったのですから。
 父は器用で働き者でした。大工仕事もお手のもので、葉タバコ栽培に切り替えたときは、家一軒分くらいの大きさの乾燥場を自分で建てたのです。やがて葉タバコから、ネギの生産に移行しました。作目が変わっても、長年の知識と技術を基に創意工夫を重ね、軌道に乗せてきたのです。
 父は今年九十二歳ですが、まだ畑をやっていますよ。農業は不思議ですね。ここが痛い、あそこが悪い、なんて言っていても、土の上に立つと元気になる。わたし自身も、週末に畑仕事をすると一週間の疲れがすっと晴れるような気がするんです。

─大学卒業後、昭和五十五年に米子市農協(当時)に入組しました。新人時代の思い出を教えてください。

 入組後に配属されたのは、富益支所の営農担当でした。最初は野菜の出荷の手伝いとか、伝票書きです。一時間で百人以上の荷受けをするのは日常茶飯事。伝票を書きながら、農家の顔と名前を覚えました。そのとき指にできたペンだこが、まだ消えないんですよ。
 わたしが事務局を担当していた青壮年部では、ニンジンの品種試験や肥料試験などをおこなう検討会を定期的に開いていました。終わるとみんなで飲みに行ったりして、ときにはカラオケで歌ったりもしました。組合員の親睦の場ですから、堅苦しい話はせず、なるべくみんなが楽しくなる雰囲気をつくるよう努めました。大学の合唱団活動での経験も役に立ちましたね。メンバーは自分の父より少し若いくらいの年代の人が多く、ずいぶんかわいがってもらいました。いまでも顔を合わせると「元気にしとるか?」と声をかけてもらえるのがうれしいですね。
 何度も検討を重ねてニンジンの品種や規格が統一されると、京阪神市場での評判はうなぎのぼりで、販売高は二億円に達しました。営農のやりがいと楽しさを実感しましたね。

数字だけで仕事を評価してはならない

─組合員に育ててもらったということですね。営農担当のほかには、どんな仕事をしてきたのですか。

 営農担当として十二年働いた後、企画管理室に異動しました。平成六年に16JAが広域合併してJA鳥取西部が誕生したときは、全体の事業計画の策定にも携わっています。退職まで二十年以上、企画管理部門を担当しましたが、平成十八年から三年間だけ、信用部に在籍しました。貴重な経験でしたね。ものの見方が変わったのです。
 信用部に着任した直後、若手の渉外担当からこんな訴えがありました。「目標を一〇〇パーセント達成しても、なんの評価もされない」と。わたしはすぐに奨励制度をつくり、成績優秀者をみんなの前で表彰するようにしました。すると、職場の空気が変わってきたのです。
 在任中は、組織のピンチに直面することも何度かありましたが、業務改善に取り組むなかで痛感したのは、数値目標だけでは人は動かない、ということです。
 このときの経験は企画管理部門に戻ったときに生きました。管理部門こそ、現場をよく知る努力をすべきで、数字だけで仕事を評価・判断してはならないのです。渉外の力、組合員への対応、職員のコミュニケーションといったものがかみ合わなければ、JAの事業は成り立たないからです。

─令和四年に組合長に就任しました。トップになって気づいたことはありますか。

 組合長に就任後、改めて営農の現場に立ったとき、自分が担当職員だった頃と比べて農家に元気がないなと感じました。それは当然でしょう。今回、特産の白ネギの圃場もご案内しましたが、とくに夏場の暑さは厳しく、作物は年々作りにくくなっているのです。
 生産部会では現在、栽培管理を一つ一つ検証しているところです。どうすれば問題を解決できるか、そのためになにが必要なのか、農家の声を直接聞く機会も増やしています。白ネギについては、冷涼な中山間地域の農地を有効活用したリレー出荷など、具体案も固まりつつあります。国や県と連携し、JAや全農がしっかりバックアップしながら、生産しやすい環境を整えていく。この産地ならそれができると、わたしは信じています。

─産地振興には職員の力も必要です。日ごろ、どんなことを話しているのですか。

 平成六年の合併時は63あった支所を18に統廃合するなど、経営改善を続ける一方で、職員のみなさんには「声かけなくして成果なし」とわたしはいつも言っています。黙っていては、組合員のみなさんにJAを利用してもらうことはできません。組合員一人一人のニーズに合った声かけをしてこそです。それが、JA職員の仕事の原点です。
 JAの役割は「組合員にモノを売ること」ではなく、「いいものを紹介する」ことなのです。たとえば金利優遇キャンペーン中の貯金とか、民間保険会社より掛金の安い共済、予約購入するとお得な肥料など、JA独自の「いいもの」を組合員に勧めてほしいですね。
 組合員のためになにができるか。役職員みんながその原点に立ち返り、コミュニケーションを取りながら事業を進めていくことが一番ではないかと思っています。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JA鳥取西部

詳細情報

なかにし・ひろのり/昭和三十三年生まれ、米子市出身。龍谷大学を卒業後、五十五年米子市農協(当時)に入組。平成六年にJA鳥取西部に合併後、信用部部長、総合企画部部長などを歴任。二十八年常務理事、令和四年代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JA鳥取西部

平成六年に16JAが合併して誕生。鳥取県西部の九市町村を管内とする。北は日本海に面し、南は中国山地が広がる。特産品として、大山山麓の米や大山ブロッコリー、白ネギ、日南トマトがあり、ナシやカキなどの果樹や畜産も盛ん。

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