JAリーダーインタビュー
岩手県JAおおふなと 代表理事組合長 猪股岩夫さん
- 岩手県 JAおおふなと
- 2025年1月

百をめざすには、百二十の力を
新人時代に組合員から言われた、あるひと言が、生き方を変えた。
東日本大震災を経験して、今も全身全霊で仕事に臨んでいる。
田んぼに足音を聞かせろ
─背が高く、立派な体格でいらっしゃいますね。
祖父も父も体は大きいほうでした。小学校一年生で、もう四年生ぐらいの体格だったんです(笑)。だから親父には口酸っぱく言われていましたよ。「背が高いと、謝るときに頭が高くなるから、だれよりも深く頭を下げなさい」と。いまでも、その言葉を守っているつもりです。
うちは米農家で、大船渡市の沿岸から数キロ山あいの集落に生まれ育ちました。田んぼは二か所に分かれていて、自宅から六キロほど離れていました。中山間地域で、草刈りなどの管理もたいへんでしたね。親父は「農業はおれの代で終わりだべな」と言いつつ、米作りに精を出していました。大正十五年生まれで、幼少期に食糧難を経験していますから、「白いまんま(ご飯)を腹いっぱい食べたい」という思いがずっと強かったのだと思います。
「田んぼに足音を聞かせろ」と、いつも言っていました。足しげく田んぼに通い、隅々まで歩いてよく観察し、こまめに管理する。そうしなければ立派な米はとれない、ということです。いい言葉です。
昔は、田んぼ仕事はほぼ手作業でしたから、人手が必要でした。田植えのときなどは、親戚や隣近所など総勢三十人くらいが集まって、ちょっとしたお祭りみたいでした。夕方作業が終わると、そのまま座敷で宴席です。盛り上がってくると、そのうち近所のおばちゃんが踊りだしたりする。そんな光景を見て、いいなあと子ども心に感じたものです。みんなで額に汗して働く姿を子どもに見せることは、だいじな教育だと思います。昔から半農半漁の世帯が多い地域ですから、いまの子どもたちも第一次産業のたいへんさやすばらしさを肌で感じながら育ってほしいですね。
わたしは高校を卒業後、農業協同組合講習所を経て昭和五十二年に大船渡市農協に入組しました。家業はわたしで三代目になりますが、現在に至るまで親父が遺してくれた田んぼに足しげく通っていますよ。
─新人職員時代、いちばん思い出に残っていることはなんですか。
最初に大船渡支店に配属され、二年めから共済担当になりました。最初に契約を取ったときのことはいまでも忘れられません。五百万円の建物更生共済です。親と同世代くらいの組合員宅を訪問し、わたしは保障の説明をしました。ただ、問題はそのあとです。説明だけなら五分くらいで終わってしまいます。二十歳そこそこの若者には世間話はおろか、冗談一つ言える器量もなかった。間が持たず、黙り込んだわたしに「もぞや(かわいそう)なあんこ(お兄さん)だな」とその人は言いました。そう、同情で契約を得たのです。
それからです。目標を一〇〇パーセント達成することはもちろん、県域一、全国一をめざしました。百を達成するためには、百二十の力を出さなければなしえません。「なにがなんでもやってやる」という強い気持ちがありましたね。「かばねやみ(めんどうくさがり)」と「臆病」は克服しなければならない。そう肝に銘じて共済を担当した十一年の経験が、わたしの原点になっています。

─そうした経験を後輩たちにどのように引き継いできたのですか。
高い目標を持って努力することはとてもたいせつですから、自分の考えは伝えてきました。わたしの座右の銘は「全身全霊」です。めんどうくさがるな。怖がるな。その姿勢を示し続けることで、まわりにもよい影響を与えられたらと思っています。
ただ、強制することはできません。いま、JAのリーダーとして、職員のモチベーションを上げ、みずから研鑽を積んでいけるような人材育成をしなければなりません。業務に必要な通信教育や研修の受講を推奨するとともに、JA職員資格認証試験に合格してスキルアップした職員には、そのレベルに応じて還元しています。これからの時代は、年功序列とは別に、がんばった人が、がんばったなりの待遇を受けられるようにめりはりをつけることも必要でしょう。

役職員一人一人が〝個人商店〟の意識で
─今回、平成二十三年の東日本大震災の大津波に耐えた「奇跡の一本松」をご案内いただきました。発災時は沿岸部の高田支店の支店長だったそうですね。
前日の三月十日付で、末崎支店から異動したばかりでした。震災当日の朝は、支店長として高田第一中学校の体育館の落成式に出席していました。陸前高田市の細かい地理はわかっていませんでしたが、同校が高台にあることをここで認識したのです。
午後二時四十六分。経験したことのない強い揺れに襲われました。津波が来る。そう確信し、二台のワゴン車に職員みんなで分乗して、迷わず高田一中に避難しました。直後に大津波が襲来。この震災で管内では千八百人以上の方が亡くなり、今なお二百八十人の方が行方不明となっています。
支店の被災状況の調査のため、数日後被災現場に行きましたが、道ばたに毛布をかけられたご遺体がね……足だけが見えているんです。その光景を、いまもたびたび思い出します。悪い夢でも見ているような、現実として受け止めるのに時間がかかりました。
ただ、組合員の生活再建は待ったなしです。信連(JA岩手県信連)の協力で、通帳や印鑑がない人もデータベースと照合して本人確認し、生活費の簡易払いをしました。共済事業でも、損害の調査・査定を迅速化しました。

─震災からまもなく十四年たちますが、復興に向け、どんな道筋を描いていますか。
管内は平地が少なく、大規模営農が難しい地域です。地域に投資するという意味合いで、営農と同じくらい、共済・信用部門にも力を入れています。ただ、人口は減ってきていますから、そのなかで地域のみなさんに選んでいただける魅力的な事業を提供していくことがより重要になっています。
わたしはこれまで消防団、公民館、稲作合理化組合、行政連絡員などの地域活動をしてきましたが、その場で地域のみなさんから、さまざまな相談を受けてきました。それがJA事業の利用に結びつくのです。先輩方も、そうやって地域を支えてきました。ですから、役職員は一人一人が〝個人商店〟のような意識を持って、地域のみなさんから頼りにされる存在になることを強く願っています。
わたしは震災から二年後に「富士山」の画に、「絆」と書いた大漁旗を作りました。どんな荒波にも負けず、職員同士が強い意志を持って、地域と結びつくことを表しました。これからも全身全霊で地域の「農業」と「くらし」を支えてまいります。

文=成見智子 写真=鈴木加寿彦 写真提供=JAおおふなと
詳細情報
いのまた・いわお/昭和三十二年生まれ、大船渡市出身。五十二年岩手県立農業協同組合講習所を卒所後、大船渡市農協に入組。信用共済部部長、参事などを歴任。平成三十年JAおおふなと理事、令和三年代表理事組合長に就任し、現在に至る。
JAおおふなと
昭和四十一年、七農協が合併して誕生。平成十四年JAさんりくと、二十年JA陸前高田市と合併。大船渡市、陸前高田市、住田町の二市一町を管内とする。ピーマン、キュウリ、トマトなどの園芸作物の生産が盛ん。希少な「気仙小枝柿」の産地でもある。